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南ベトナム解放民族戦線(みなみベトナムかいほうみんぞくせんせん)とは南ベトナムで1960年に結成された反アメリカ・反帝国主義を標榜する組織。通称は越南共産(ベトナムコンサン)を略したベトコン。
南ベトナムの「解放」とベトナム民族の統一を目的とし、北ベトナム軍(ベトナム人民軍)の指導下にあった。ベトナム戦争が始まると南ベトナム軍やアメリカ軍などと戦ったが、圧倒的戦力のアメリカ軍に対してゲリラ戦で臨み、大いにアメリカ軍を悩ませ消耗させた。しかし、従わない住民らを処刑したりしたので、一般人の被害は多かった。特にテト攻勢でフエを一時占領した際は住民大量虐殺事件を起こしたことで有名である。(南ベトナム解放民族戦線の組織的な犯行ではないとの説もある。詳細はベトナム戦争ノート「3.7ベトコンによるテロの増加 3.13フエ事件 について」の項を参照のこと)
解放戦線は実質的にベトナム労働党が主導していたが、仏教徒や自由主義者なども多数参加していた。しかし、ベトナム統一後、それらの影響は徹底的に排除された。また、南ベトナムの民衆はおろか政府の要人にもかなりのシンパを獲得していたことで知られる。
南ベトナムの大統領であったゴ・ディン・ジエムがその名付け親といわれる「ベトコン」という蔑称や「解放民族戦線」などの呼称は、いずれも不正確であり、第三者による誤記・誤訳や蔑称が一般化してしまったものである。
中国共産党は正式な
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として「中共/チョンコン(Zhong-gong)」を自称するのに対し、ベトナム労働党及びベトナム共産党が正式な略称として「越共/ベトコン(Viet Cong)」を自称したことは無い。政治団体―統一戦線組織としての略称は「解放戦線(Mat tran Giai phong)」、その軍事部門の通称は「解放軍(Giai phong quan)」である。「解放勢力」の訳語は、軍を意味する英語の「フォース」を勢力と誤訳したものである(ただし、越語においても、フォースを「軍」と越訳せず、「勢力」luc luong と越訳する場合はある)。
南ベトナム軍事援助司令部(U.S.Militarly Assistance Command,Vietnam、通称MACV)は、1962年2月8日にアメリカ合衆国によって設立されたベトナム戦争に対する軍事介入戦闘部隊。1950年に組織されたインドシナ米軍事援助顧問団の流れを汲む組織で、1955年に南ベトナム米軍事援助顧問団として改組された組織が、当時のアメリカ大統領ジョン・F・ケネディによってさらに改組された軍事組織。初代司令官はポール・ハーキンス大将。
ワシントンD.C.を訪れたゴ・ディン・ジエムを迎えるアメリカのドワイト・D・アイゼンハワー大統領1954年10月23日に実施されたアイゼンハワー大統領とゴ・ディン・ジエム大統領による会談でアイゼンハワーはアメリカ軍による軍事援助を約束し、ベトナム戦争に本格的に介入することとなった。アメリカは軍事顧問をベトナムへ送り出し、ベトナムにおける軍事活動を開始したが、1959年にテロによる軍事顧問殺傷事件にて、初めてのアメリカ人犠牲者を出すことになる。これをきっかけとしてアイゼンハワーは「我々の力が有益である限りアメリカの援助を継続する」との声明を出し、さらなる軍事援助強化の姿勢を強調した。
その後、ケネディ大統領は
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の後を引き継ぐ形で、戦闘部隊を直接投入する動きを見せる。その際に組織されたのが、南ベトナム軍事援助司令部(MACV)である。MACVの設立により、ベトナム内におけるアメリカ軍兵力は11,300名となった。
ヤンキー・ステーション(Yankee Station)はベトナム戦争中にアメリカ海軍が南シナ海に設定した地点名。空母機動部隊の遊弋地点であり、北爆を行う艦載機部隊の出撃地点であった。位置は北緯16度、東経110度、南ベトナムの海岸から東へ160km(100マイル)地点である。
ローリング・サンダー作戦およびラインバッカー作戦時には2から3隻の航空母艦がこの地点にて作戦行動しており、1972年には一時6隻が集結した。最初にヤンキー・ステーションに到着したのはキティホーク(CVA-63)であり、砲艦外交および航空偵察任務のために派遣された。時期はトンキン湾事件以前の1964年4月であった。
ヤンキー・ステーションにはベトナムからアメリカ地上兵力が撤収した後の1973年8月5日まで空母が遊弋し続けた。
ライタイハンとは、韓国がベトナム戦争に参戦した際、韓国人男性とベトナム人女性の間に生まれた二世のこと。パリ協定による韓国軍の撤退と、その後の南ベトナム政府の崩壊により取り残され、「敵軍の子」として迫害された[1]。
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はベトナムで軽蔑の意味を含めた「混血雑種」、タイハンは「大韓」のベトナム語読みである。
ライタイハンの正確な数は、諸説ありはっきりしない。1500人(朝日新聞・1995年5月2日)、2千人(野村進)、最小5千人(釜山日報・2004年9月18日)、7千人、1万人以上(名越二荒之助など)、最大3万人(釜山日報・同)としているものもある。彼(彼女)たちの中には父親の記憶を持たず、韓国語を話せず、写真だけが唯一残された思い出という者がいる[2]。韓国との混血児は名乗りでないとの主張もある[3]。正確な調査が行われないまま、援助団体が支援を主張したため、数が膨れ上がったとの批判もある[4]。しかし、集団として注目できる、まとまった数の混血児が発生したのは事実である。
原因については「無責任にも妻と子供を捨ててに韓国で帰国したこと」(釜山日報、2004年9月18日)とする現地婚、「ベトナム人には美人が多いので、女は皆、慰安婦にさせられた。韓国との混血児は名乗り出ないので、はっきりとした数は判らないが、一万人以上はいるはずだ。」(名越二荒之助「日韓2000年の真実」~ベトナムの方がのべる韓国の残虐行為~P672)とする慰安婦(非管理売春)などと言われている。また、日本のインターネット上では、ベトナム解放戦線の放送が韓国軍による拷問や虐殺事件、あるいは婦女子への暴行事件を連日報じていた(亀山旭『ベトナム戦争』P122)ことや猛虎師団の一兵士が村の娘を強姦した(同p127)こと、そうした事件を報道する韓国マスコミ(1999年5月256号ハンギョレ21 など)を引用するかたちで原因を強姦とする意見が多く見られる。しかし、まだ十分な調査がおこなわれておらず、正確な原因は究明されていない。
背景 韓国のベトナム派兵
当時の朴正煕政権は反共を国是とし、分断国家としてのシンパシーを訴えて派兵を推進した。安聖基は「参加する方では『男に生まれたからには、一度は戦場に赴かねば』という気風がありました」とも指摘している[5]。南ベトナムに派兵された韓国軍は、2個師団プラス1個旅団の延べ31万名。最盛期には5万名を数えた。また、「ベトナム特需」を当てこんだ産業資本や出稼ぎの民間人も進出し、これも最盛期には2万人近く[6]がベトナムに赴いた。ライタイハンはこれら韓国人男性とベトナム人女性との間に生まれた[7]。
兵士や出稼ぎの民間人による本国への送金は、年に1億2千万ドルを数え、1969年の韓国の外貨収入の2割に達した[6]。アメリカによる軍事・経済援助、日韓基本条約による資金援助と合わせて、漢江の奇跡の基礎となった。
マスコミの対応
後の大統領である全斗煥、盧泰愚はともにベトナム派兵で活躍した指揮官だった。最大の圧力団体である軍部の存在もあって、韓国ではベトナム戦争を批判的に取り上げることをタブー視する雰囲気が存在した。しかし後年、徐々に国民の意識が変わり、ライタイハンをテーマとしたドキュメンタリー[8]が放送されたり、ハンギョレのようにベトナムでの韓国軍の戦争犯罪やライタイハン問題を積極的に取り上げる動きもある。だが、その都度、退役ベトナム参戦兵士団体から強い抗議を受ける事実もある。
ライタイハンへの援護策
ライタイハンが表面化して後も、韓国政府による積極的な援護策は取られていない。しかし韓国のキリスト教団体とベトナム政府の支援により、支援施設(職業訓練学校)が設立され、無償での職業訓練と韓国語の教育が行われた[9]。
またライタイハン自身が、韓国人である父親に対して実子であることの認知訴訟を起こし、判決により韓国国籍を取得する動きもある[10]。盧武鉉政権は2006年に、写真など客観的に立証できる手段があれば韓国の国籍を付与する法案を検討するとした[11]。
ベトナムと韓国が経済交流を再開して後に発生した混血児は「新ライタイハン」と呼ばれる。
その他 アメラジアン問題
戦時下のベトナムにおいては、米兵とベトナム人女性との間にも多くの混血児が産まれた。一説には1万5千人ないし2万人、あるいは10万人とも言われる。統一後のベトナムでは、ライタイハン同様に「敵国の子」とされ、迫害の対象となった。1987年、米国政府は混血児とその家族の移住を受け入れ始めたが、なおベトナムに留まる者もいる[12]。詳しくはアメラジアンを参照のこと。
黄金の花嫁:ライタイハンがヒロインのテレビドラマ。キョン・ミリなどが出演。